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音楽が自己表現になるまで・音楽家の生活の変化 – 岡田暁生『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏』から

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西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

岡田 暁生 中央公論新社 2005-10

by ヨメレバ

演奏会と音楽を聴く市民の出現

前回の記事では、音楽が宇宙の秩序を表現するものから、ルネサンス時代には純粋に美的なものとして、感覚に訴えるものに変化しはじめたことを書きました。
しかし、それは現代とは時代状況が大きく異なります。現代のように、「ファンが音楽家を支え、音楽家は表現を問う」という仕組みはどうやって成立するのでしょう?

岡田氏はこう書いています。

今は誰もが好きな音楽を自由に聴ける時代である。だがかつては違った。[略]芸術音楽は原則として王侯貴族ないし教会の音楽であって、それを市民(庶民)が耳にできる機会はごく限られていたはずである。たとえばオペラは一八世紀まで、王侯が催す祝典の一環であることが多かった。[略]器楽曲も紅茶を飲んだり談笑したりトランプをしたりしながら聴く王侯貴族のための社交音楽だったわけで、これまた市民にとっては高嶺の花だっただろう。[略]カトリック圏ではミサ曲は王侯貴族の礼拝堂などで演奏されることが多かったはずだから、果たして市民がそれを耳にすることができたかどうか……。(p.105)

補足するなら、上での岡田氏の記述に「芸術音楽」と断りがある通り、中世~ルネサンスの世俗音楽といえば吟遊詩人(トルバドゥール、トルヴェール、ミンネゼンガーら)や舞曲が思いつきます。しかし詩人たちは多く城で歌ったのであり、民衆と音楽の接点は多くありませんでした。
このような音楽の状況に楔を打ち込んだのは、「演奏会」と「楽譜」の出現、そしてそれらを愛好する民衆、いわば市民階層の登場です。

啓蒙の時代[概ね18世紀、引用者注]とは、こうした特権階級の独占物としての芸術音楽が、わずかずつではあるが市民に開放されていった時代だった。演奏会という、切符を買えば誰もが好きな音楽を聴ける民主的な制度が少しずつ広まっていき、楽譜印刷業が盛んになるとともに、お金を出せば誰もが好きな楽譜を買って自分の家で嗜むことができるようになっていくのが、この時代である。(p.105ff.)

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演奏会という形式ではイギリスが先行しました。「ザロモン・セット」「ロンドン・セット」として知られるハイドンの交響曲第93番から第104番は、1790年代にハイドンが興行師ザロモンによって企画された公開演奏会のために書かれ、そして熱烈な成功を収めたことはよく知られています。

また18世紀には、世界最古の市民オーケストラと言われるゲヴァントハウス管弦楽団が商人たちの出資によって16名でライプツィヒに設立され(1743年)、さらに定期演奏会が始まりました(1781年)。また世紀後半にはウィーンでも宮廷劇場をオペラ上映期間外に貸出し、予約演奏会が開かれるようになった、という記載もこの本にはあります。こうして徐々に一般市民が好んで演奏会に出かけ、音楽家が生活の手段をそこから得る仕組みが整ったと言えるでしょう。

楽譜の流通と、作曲の意味の変化

さて先に引用した文のうちには、演奏会にほかにも「楽譜印刷業が盛んになるとともに、お金を出せば誰もが好きな楽譜を買って自分の家で嗜むことができるようになっていく」という記述がありました。それまで教会と王侯貴族の独占物であった音楽は、楽譜を通してアマチュアの市民に流通し、反復されるものになっていきます。

新しく出現した大量のアマチュアは、王侯貴族とは違い、音楽を権威づけや政治のために利用するためではなく、純粋に音楽を演奏会で楽しみ、そしてそれを小規模な編成で演奏して楽しみたがったわけです。時代はかなり下りますが、同じ岡田氏の『音楽の聴き方』で引かれている「アドルノがモーツァルトの交響曲をまずピアノ連弾で知った」という話はこのアマチュアたちの延長線上にあるのでしょう。

この動きは当然楽譜出版を盛んにし、同時に音楽家・作曲家に対してはパトロンからの自立のチャンスをもたらしました。「「音楽への愛」によって結ばれた作曲家と公衆との共同体を支えたのが、楽譜出版業だったといっていいだろう。」(p.108)と氏は記しています。

こうして見てくると、18世紀に現代につながる作曲家のあり方が確立されたと言えるのではないでしょうか。

しかし、では、それまでの作曲家はどのような生きかたをしていたのでしょう?

西洋音楽史の本を繙いてみると、一番最初に出てくる作曲家には12世紀後半から13世紀にかけて活動したノートルダム楽派のレオナン(レオニヌス)とペロタン(ペロティヌス)の名前が挙がると思います。しかし彼らは作曲家であると同時に聖職者であり、教会での生活を送っていたのではないかと考えられます。

Harpsichordその後ルネサンスを経て教会から独立した音楽は、王や貴族たちのものでした。いわゆるバロック期の音楽はそうした宮廷趣味に応えるものだったと思いますが、その場では作曲家と演奏家は分かれていませんでした。簡単に言うなら、宮廷でイベントやBGMが必要なときがあればその都度曲を書き上げ、演奏するのが仕事だったと言えるでしょう。そうした環境では楽譜もあくまでその場で伝達するためのものであり、その曲が再演されるという現象はなかったのでしょう。毎回作ればよいわけですから、とくに保存しておく必要もないわけです。

一八世紀までの音楽は、原則として一度(ないし数度)演奏したらそれで終わりの消耗品だった。オペラの場合、ヒットした作品が別の都市でも上演されたりすることはあったが、それでも数年たてばレパートリーから消えるのが常だった。大事なことは「その時その場での需要を満たす」ということ(具体的にはパトロンの要求に応えること)であって、「永続的にレパートリーに残るものを書く」という意識は、作曲家にはあまりなかった。その意味で一八世紀までの西洋音楽における作曲意識は、たとえば今日のポピュラー音楽とあまり変わらなかったといってもいい。(p.137f.)

しかし市民階層の登場と楽譜の流通によって音楽が反復されるようになると、馴染み深い音楽、感動を生む音楽が芸術として価値を帯びてくる、そしてそれに並ぶ作品を生み出し、表現することが求められるようになります。上の部分に続いて、こう書かれています。

それに対して、一九世紀とは、「名作」を軸に音楽史が展開しはじめた時代だった。過去の偉大な音楽が演奏会レパートリーに取り入れられるようになったのは、一九世紀(とりわけ後半)になってからのことなのである。バッハはパレストリーナを知っていたが、決してそれを演奏したりはしなかった。また晩年のモーツァルトは大バッハの作品を知っていたが、それを演奏会で弾きはしなかった(ただし彼はヘンデルの《メサイア》を編曲している――ヘンデルは音楽史上で初めての、死後も継続的にその作品が「名作」として上演され続けた作曲家である)。だがメンデルスゾーンやリストやクララ・シューマンやアントン・ルービンシュタインやハンス・フォン・ビューローは、バッハやベートーヴェンを演奏会で弾いた。一九世紀において演奏会は、過去の不滅の傑作を陳列する音の美術館になりはじめた。
かくして一九世紀の多くの作曲家たちの間には、「バッハやベートーヴェンの横に並べても恥ずかしくない『不滅の名作』を書かねば」という使命感が芽生えてくる。(p.138)

こうした推移は音楽史上は古典派を経てロマン派の時代、政治史上はフランス革命後、ウィーン体制・再反動としての1848年の二月革命・三月革命を経た時代に起こりました。上のほうで記載した、ハイドンのロンドン訪問の成功や、演奏会の始まりを思い出してください。April 8, 1926また、引用で名前の出てくるハンス・フォン・ビューローは、それまで指揮も行ってきた作曲家に代わり、楽譜を解釈して演奏者・オーケストラをまとめる専門家となった初めての職業指揮者と言われています。

作曲家の表現としての「名作」・それを演奏する職業としての指揮者・演奏家という分業化の流れと、市民の時代の訪れが並行していくことには注意を払って良いと思います。

その流れを振り返りつつ、氏がバロック音楽を聴く難しさを語っている箇所を見てみましょう。現代と隔絶された環境のなかに、音楽の現場があったことがわかります。

バロック時代において音楽がいったいどのような意味をもっていたかを想像することは、中世やルネサンスよりはるかに難しいように思う。大まかにいえば、中世からルネサンスへ向けての西洋音楽史は、「宗教から生まれた音楽が、徐々に裕福な貴族のための快適な楽しみへ移行してくプロセス」として理解できるだろう。そしてバロックよりも後を先取りしていうなら、一八世紀末以後の音楽は「ブルジョワの楽しみ」となり、「音楽を音楽(芸術)として聴く」という態度もそこから生まれてきた。「楽しみとしての音楽」とか「芸術としての音楽」についてはいうまでもなく、「宗教のための音楽」も、決して現代人にとって想像のつかないようなものではない。だが「王の祝典のための音楽」は? たった一人の王の栄光を称えるために、国中の富を注ぎ込んで催される祝典とは、いったいどんなものだったのか? ただ自分だけのために、国の財政が破綻するような祝典を催させ、それを眉一つ動かさずに平然と受け入れられる人間の感覚は、いったいどうなっていたのか? 「王権を飾り立てる祝典」としての音楽のありようは、現代人の理解の範疇をはるかに超えている。(p.66)

落穂ひろい

さて、この史的な記述の中に組み入れられなかった抜き書きをいくつか残しておきます。

・大作曲家と名作、なじみのジャンル、三和音、長調/短調の区別、拍子感。バロックは、われわれが音楽の基本ルールだと考えているもろもろの事柄が確立された時代である。(p.61)

・ピアノとフォルテ: G.ガブリエリの『サクラ・シンフォニア集』(1597)の『ピアノとフォルテのソナタ(Sonata pian’ e forte à 8)』が最初。「対比」の原理を追求し、ルネサンス的な均衡を打ち破ったヴェネツィア楽派によるもの。
・コンチェルト(ラテン語の「競う」からイタリア語では「協調する」の意味)という言葉が曲の題名として使われたのも、A.ガブリエリとG.ガブリエリによる。この語は器楽伴奏付きの宗教声楽曲に用いられたが、これもまた器楽と声楽の対比、それまで均質な調和を前提としていたルネサンス期の宗教曲に対比・対照の原理を持ち込んだ。

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

岡田 暁生 中央公論新社 2005-10

by ヨメレバ

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